第 10 回 『上手の感を知ること』
『花鏡』の中で世阿弥は「上手とは何か」について触れています。
「謡・舞・動作、これらがちゃんとできれば、上手というのである」 しかし、そればかりではない、とも説いています。
「真の名手だと認められることは、舞や動作の練達だけによるものではない。これは、役者の悟りともいうべき心によるもので、すぐれた芸力から生まれる感だと思われる。この道理をよく理解する者は、上手の資格がある」
感、については「みごとだという感がだせるかどうかは、技の進歩とはまた別のものである」とも書かれています。
ただ「上手」だけでは名手にはなれない、のだそうです。
「この上手のうえに、もうひとつ、興趣ふかく思わせるところがあれば、それは、もはや名人の芸境と称してよい。そのうえ、さらに、心のはたらきを超えた『感』を具備するようになれば、世間の名声を一身に受ける位にまで至ったものである。以上の段階をよくきわめ、研鑽をかさねて、心の修行によって能の奥儀に達するようにしなければならない」
心のはたらきを超えた「感」。これは話力の「内在的意味」を想起させます。証明することはできないものでしょう。
少々難解な表現ですが、このようにも言っています。
「声も良く、舞やはたらきも十分でありながら、しかも名人にはなれない役者があり、他方、声も悪く、二極もそれほど達人ではないのに、世間から上手だと認められる者もある。その理由は、舞や動作は技だし、技を支配するものは心であり、能に悟りをひらいた位だからである」
感、心の修行、能の奥儀、悟り、どれもことばで表し、このレベル、と示すことはできません。私は「安住するなかれ。常に革新的であれ」と解釈をしています。