第8回 『「因果の花」と「時分の花」』
『風姿花伝』では度々「花」にたとえた表現が出てきます。今回は「因果の花」(いんがのはな)と「時分の花」(じぶんのはな)をご紹介します。
「因果の花を知ることについて、これは極意ともいうべきである。一切の事は、みな原因対結果である。初心時代から身につけてきた多くの芸は『因』であり、能の奥儀に達し名声を得るのはその『果』である。したがって、稽古と言う『因』があやふやであれば、りっぱな『果』を収めることも困難だろう。このことをよく銘記しなければならない」
ほう、と思いました。やはり努力あっての成果、ということでしょう。
そして『果』を得るには「時分」も考えよ、としています。
「また、時分というものについても警戒しなければならない。すなわち、昨年あたり好調だったならば、今年はそういった花は咲かないものだと承知しておくべきである。また、短い期間においても、男時(おどき)女時(めどき)というものがある。すなわち、どんなふうにしても能の出来がよい時もあれば、きっとまた不出来な時もあるものだ。これは、人力ではどうにもできない因果なのである」
努力をしても、それが実にならないこともある、というのです。
さらに「あまり重要ではない場合の演能には、競演であっても、ぜひ勝とうとする執着心をもたず、また、あまり頑張り過ぎぬようにし、勝負に負けることがあっても、気に病まない」
そして、演じかたを変えたり、いっしょうけんめい演じた場合は「目新しさの持つ偉大な働きで、先日来あまり良くなかったのが『因』となって、今度は良い『果』が得られるわけなのである」
一度の失敗でめげるな、落ち込むな。反省をして、それを生かせ――そう世阿弥から応援のエールを贈られた気持ちになりました。