第 9 回 『習道を知るということ』
世阿弥は「芸の模倣」について、こう述べています。
「すぐれた名手の演じぶりは、自分の師について良く学習した後に模倣すべきであって、しっかり学習しないうちに模倣してはならない」
学ぶ、とは真似ること、と良く言われますが、基本ができていないうちに真似ることは危険だと諭しているのです。
「上手は、すでに、年来、心も身体も十分に修練を積んで、その後、身体の動きを控えめに、七分くらいのところで、余裕しゃくしゃくと演ずる。それを、初心の者が、修練もろくにせず、いきなり模倣すると、身体も心も七分めの芸となってしまう。したがって、行きどまりになってしまう」
私にも思い当たる節があります。
若い頃「あの人の話し方、良いな」と思って上辺だけを真似したことがありました。自分では最初「斬新」などと思っていましたが、どうも話していて座りが悪い、スッキリしないものを感じてやめてしまったものです。
『花鏡』の「習道を知ること」にある、このくだりを読むと、そんな昔の「模倣」を思い出します。
「元来、名手といわれる人の能は、技術をきわめつくし、すっかり身につけきって、その結果、安き位にまで至った芸で、観客にとっておもしろいものを、単におもしろいとばかり受けとって、初心の者が模倣すると、あの模倣だとはわかるが、感興は全然ない」
見る者、聴く者は本物か偽物かを見分けます。
基本ができていない初心者が名人の真似をしてみても見破られる。そこに芸はない――と世阿弥は明快に指摘をしています。